ベトナムのお正月ですが今は亡きおかあちゃんにご両親またご先祖様達に感謝を申し上げるためにお寺参りに行って来ました。
自宅からバイクで5分、会社から徒歩1分の所にあるかなり大きな規模のお寺ですわ。
通りを一歩入ると溢れんばかりの人 人 人で路上には所狭しと露店が並び臨時のバイク駐輪場などもできておりまして歩くのもやっとの状態でした。お花に線香売り、仏様の肖像画や御数珠売り、飲み物や宝くじ売り、放鳥のための鳥さん達は籠の中でひしめき合っておりまして まるで門前市のような賑わいで露天商も商売繁盛で大忙しでしたぞぃ。
本堂にある仏様は・・・日本の仏様と比べるとなにかインチキ臭く感じてしまうハデハデな仏様達でありますが熱心にお祈りしているベトナムの人達にそんなことは口が裂けても言えませんな。
お釈迦様やキリスト様は自分の姿を模した偶像崇拝に対してどの様に思っているのでしょうかねぇ。
本来、人間が日々の生活の中で精神性を高め善い行いを通じてひとりひとりの心の中に宿るのが仏性と言うものなのでしょうが・・・
日々生活に忙しい現代の人間様は正月など日常とは違う時間軸の中でしか また、壮厳な建物や仏像と言う具体的な対象物の前でしか行動できないようになってしまったのかも知れませんねぇ。
それは何故でしょうか・・・やはり働かなくては日々の生活も儘ならない状態に置かれているからでしょうか?
ギリシャ哲学も日々働く必要のない人々の中で生まれたものだと考えるとやはりあれも欲しいこれも欲しいと物欲に支配されるから日々忙しく働かなくてはならず働くことに熱心なあまり人間としての本来持っていた思惟する心が荒廃し、人間の英知では到底つくることができない自然の美しさに神や仏を感じる心など本来人間様にとって本当に大切なものをを忘れているからかも知れませんねぇ。
多分、太古の人達はもっと日々日常の中に神性や仏性と言うか・・・何か分からないものを感じる感性は研ぎ澄まされており 今の時代とは違う生活様式に中で自然を敬い 恐れる そんな生活を送っていたのではないでしょうか?
それを文明(知恵や知識)が未開発だったからだ! と断定する現代の人間様は傲慢だと言われても仕方がないかも知れないですね。
だってこの世の中、人間様にはわからないことがまだまだ多すぎますもん。
日本人と比べてはるかに物欲が強いと言われるベトナム人ですが、信心も日本人に比べて強いような気がします。
物と仏・・・読み方が一緒と言うのは何か意味があるのかも知れない とアホな秀さんがいい加減なことを言っておりますわ。
ネットで調べてみますと 仏とは、仏教上の完全な悟りを開いた聖者。仏や菩薩、及びそれに準ずる優れた聖者や高僧仏陀。釈迦。死者。死体。死者の霊なども仏と呼ばれる。 とあります。
本日は御寺参りに行ったことからこんな訳のわからん話になってしまいました。
いつも子供を可愛がらないお母さんが
ある時突然、優しい声で子供たちに
「今日はお母さんがhot-cakeを作ってあげるからね!」と言ったもんだから
子供たちは驚きと期待で出来上がるのを待っていたそうな
しかし、美味しくはなかった らしい・・・
そこで一人のマセた子どもがお母さんにこう言ったそうな・・・
普段優しくない人が気まぐれで作っても・・・
「ホットケー キ作って魂入れず では美味しはずはない」・・・と
やっぱ最後はこんなオチかい! とお怒りのそこのあなた
秀さんなんてこんなもんですわ、ハイ
仏仏言わずに 聞き流しておくんなさいな
ほなさいなら〜
2010年02月15日
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あまり美味しそうには見えなかったので食べませんでした。
ベトナムには豚肉のフォーはありましたでしょうか?
旅行中はいろいろなお店で毎日食べていましたが豚肉のは見かけませんでした。
自分はどこの国に行ってもいかなる寺社でも、現地の人に混じって祈りと言うか感謝の気持ちを奉げてきます。
昨日の宗右衛門町ならぬベト街ブルース
m(==)m 参りました
やはり、秀さんにはかないませぬ(ダジャレ
そうでねぇ、フォ〜ボー、フォ〜ガー が一般的ですね。
私も豚肉のフォ〜は聞いたことありませんねぇ。
そんなフォ〜に出くわしたら・・・
ほぉ? と感心しましょうか・・・
スマソ。
臭いダジャレに勝敗はごぜいません!
格調高く誰もが感心するような文章を書きたいとは思うのですが・・・
グラム200ドンの脳みそでは無理ですわ。
それもアホとマヌケの合わせ味噌ですもんね。
ここは音楽家に秀さんの頭を見てもらいましょう。
こころは・・・
ドレどれ、どんな ミソ かいな? と
これじゃ ファ 抜けじゃわぃ
秀さん ラ しい ド しようもない頭だ
と判定されそう・・・
どうもです。