2010年10月17日

ソンミ村の虐殺その@

ベトナム戦争時代、アメリカ軍の行なった虐殺行為の中で世界中で有名になったソンミ村虐殺事件がある。

ホーチミンの戦争跡記念館に数枚の写真と共に簡単な説明書きがあるので見た方も多いのではないだろうか。秀さんも数回行ったことがある。

どんな戦争でも、そこには・・・正義や善悪なんてものはないと思う。
戦争とは極限の精神状態である。
そんな精神状態に追い込まれるのはいつも若い兵士たちである。
それを差し引いてもこの事件は人間の行動とは思えない程の残虐行為である。

アメリカ軍は当初、村民に対する虐殺ではなく南ベトナム解放民族戦線ゲリラ部隊との戦いという虚偽の報告で誤魔化していたが、シーモア・ハーシュ(記者)が独自の取材をもとにザ・ニューヨーカーで真相を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。

この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。

最近ではイラク戦争、アフガン戦争しかり、戦争とは正義の戦いという名目で始まり、欺瞞で終わる。 

1970に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、19713月29に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の19743には仮釈放される。

これだけのことをした人間がたった3年の服役で釈放とは・・・何も言うべき言葉がない。 
戦争と言う狂気の中で人間としての理性を失わなかった者が若干でもいたことは唯一の慰めである。

何と人間とはおろかな生き物だろうか・・・と思わずにはいられない。
戦争を決して美化してはいけないと思う。 
以下、アメリカのライフに掲載された写真や記事をもとにImagine & Think から転載する。

読むと気分が悪くなる方もおられるかも知れませんが、この事件を知らない若い人達に是非読んで欲しいとの思いからあえて転載した。 

何と人間とはおろかで残虐で臆病な生き物だろうか・・・と思わずにはいられない。

戦慄の朝 Horrible Morning

1968
316日の早朝、ソンミの村人は、いつもと同じように早く床を離れ、
一日の作業を控えての食事の支度を終えた。
多くの家では家族が食卓を囲んでいた。ある者はすでに市場に出かけたり、くわを担いで畠へと向かった。春の朝である。小鳥がさえずり、何羽かの鶏が、遅めのときの声を作ったりしていた。
村の緑の木々を、朝の露の小さな水滴が飾り、それがここの風景を、一幅の夢幻的な絵のように見せ、素朴と安穏の美をつくりだしていた。


そのつかの間の平穏が突如破られた。530分、クァンガイ地域ソン・ティン〔Son Tinh〕地区のビン・リエン〔Binh Lien〕(ビン・ソン〔Binh Son District〕)、ラム山〔Ram Mount〕から発射されるさまざまな種類の砲弾が、ソンミ村の4つの集落に炸裂した。耳をつんざくような爆発の音とともに大地の表面が激しく震え、樹木が裂かれ、鶏、あひるがけたたましく鳴き、村人たちの叫び声が聞こえた。

30
分間続いた砲撃が終わるとすぐに、2機のヘリコプターが飛来して旋回を繰り返しながら、ロケット弾と重機関銃の弾丸を、トゥ・クン、コ・ルイの二つの集落の民間人居留地に撃ち込んだ。ついで、9機のヘリコプターからなる一団がチュー・ライ〔Chu Lai〕(クァンガイ北部にある米軍基地)から飛来し、トゥ・クン〔Tu Cung〕集落の西部水田に着陸、別に11機の部隊が、コ・ルイ集落のゴ〔Go〕小集落の近くにある荒地に着陸した。

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                  〔写真は、トアン・イェン〔Thuan Yen〕の西部に着地する米軍  ハーバール撮影] 

純朴な村民たちは、退避壕に身を隠したり、小屋の中で朝食をとり続けたり、あるいは畠にとどまったり
ていたが、みな、それをこれまでにもあったような、普通の掃討作戦だと思い、誰一人として、これから自分たちや仲間の村民たちの上に訪れようとしていた運命を予感したものはいなかった。


コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。
いちばん最初に、まずレ〔
Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。

別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。
トリンさんの
8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。
口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。
米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども
3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。
遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。
数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔
Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。
生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。
残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。
出産間近かの妊婦、ニョン〔
Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。
遺された
3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。
ヴォ・チ・プー〔
Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。
その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。
米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。
母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。


同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。
そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。
こうして二人は、ムイさんの
4人の子どもたちとともに殺戮された。

ヴォ・マイ〔
Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。
グェン・チ・チ〔
Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。
この小集落に暮らしていた
16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。


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                                     [写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール] 

この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。


トゥ・クン〔
Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ[Ernest Medina]大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。
U小隊と第V小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。
ウィリアム・カリー
[William Calley]中尉の率いる第T小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。

米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。
カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。 

「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです
……。」 

「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」


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                                       〔写は、自分で負傷したハーバート・カーター〕

スティーブン・ブルック[Stephen Brook]の指揮する第U小隊の一部も同じようなものだった。
この小隊の一員だったシンプソンはこう語っている。

「一人の女と一人の子どもがこっちから小屋のほうへと飛び出して行った。ブルックス中尉が撃てと命令した。それで私は撃った。女と小さな子どもです。その子は
2歳くらいだったかな。」 
シンプソンは、そのあと
10人を殺したと認めている。 

ヘリコプターが着地する以前、すでに水田にいた農民や水牛に乗った少年などが殺された。
主として、ビン・ドン〔
Binh Dong〕とビン・タイ〔Binh Tai〕小村落の民間人である。

しかし、もっとも戦慄すべき虐殺が起こった場所は、トアン・イェン〔
Thuan Yen〕小集落であった

ピンクビルへのチャーリー中隊の作戦には、軍曹で米陸軍写真班員のロナルド・ハーバール[Ronald L. Haeberle]が加わっていた。
彼は、あと
11日だけ軍務に服すれば、復員となり故郷に帰れるはずだった。
彼が重要な証人の一人であったことは疑いない。

彼はこの虐殺を明るみに出すという貢献をした。
彼のその行為はアメリカと全世界の世論に強烈な衝撃を与えたのである。
作戦に参加したとき、彼は
3台のカメラを携えていた。その2台には白黒、もう一つにはカラーのフィルムが入っていた。

虐殺のあと、バーバールは40葉の白黒写真を陸軍に手渡した。だが、残り18枚を手元に残しておいたのだ。

事件から18ヵ月後、アメリカ国内でこの虐殺事件が調査されることになった時、バーバールはカラー写真を公開し、それは米国政府を恐怖で震撼させたのだった

この
18枚の写真には、撮影者の完全に筋の通った詳細な説明文がつけられていたのだ。ハーバールは、その文章をアメリカの雑誌『ライフ』に発表した。
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それによると、彼は、1968316日の日の出前、午前6時にチャーリー中隊に加わったが、この作戦について、彼には誰も何も説明しなかったという。ヘリから降りたとき、彼にははじけるような銃撃の音が聞こえた。
横目で脇を見ると、いくつもの死体がころがっていた。だが、彼は振り返ることをしなかった。

何人かのベトナム民間人、確か
15人ほどで、大部分は女と子どもだったが、100ヤード(約90メートル)ほど向こうを歩いていた。
突然、米兵たちが、
M-16M-79マシンガンを彼らに向けて発射した。この光景を目撃したハーバールは、自分の目を信じることが出来なかった。

ハーバールは別の場所に来たとき、こう語っている。
「右手の離れたところに一人の女の姿があり、頭が茂みの上に見えていた。自分以外の米兵たちは、みな、彼女に向けて発砲を始めた。その女をめがけ、何度も何度も発砲を繰り返した。ひたすら撃ち続けた。骨がばらばらになって空中に飛ぶのが見えたんだ。」


カリーの指揮する第T小隊は、トアン・イェン小集落に突入した最初の部隊で、組織的、計画的な虐殺を行なった。
米兵はいくつかのグループに分かれ、八方に散って捜索し、ある者は発砲しながら民間人を逮捕し、ある者は小屋を焼き払い、退避壕を破壊するために爆薬を投げ込み、またあるものは水牛や牛を殺戮したり樹木を切り倒したりした。
コ・ルイ集落のミ・ホイ小集落でと同じように、米兵たちの全滅作戦は、ここで絶頂に達した。
ハーバールの写真はこうした光景をまざまざと記録している。


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                                       〔写真
:すべてを燃やし尽くす 撮影:ハーバール〕


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米兵たちが年老いたグェン・チ・ドック〔Nguyen Thi Doc〕さんの小屋に突入したとき、彼女の一家は、米といくらかの甘藷の並んだ朝の食卓を囲んで集まっていた。
米兵は突入するといきなり食卓をめがけて乱射した。
彼女の夫、長男夫婦、娘、そして孫を含む
9人がそこで殺された。
孫の頭が転がったが、その口にはしっかりとサツマイモの一かけがくわえられていた。ドックお婆さんは傷を負って動けずに横たわっていた。
3人の孫だけが、まだ食卓についていなかったので、かろうじて死をまぬかれた。

そのドックお婆さんの隣家は、ダン〔Dang〕さんの6人家族で、やはり食卓を囲んで坐っていた。突入した米兵たちは彼ら全員に向けて銃を発射し、そのあと家を完全に焼き払った。
リ〔
Ly〕さん一家の7人は、退避壕の中へと追いやられ、そのあと爆発物で殺された。
リエン〔
Lien〕さん一家の5人、マイ〔May〕さん一家の6人、そしてグェン〔Nguyen〕さん一家の4人は、誰一人助からなかった。

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                                                      〔写真 撮影:ハーバール〕

 
トゥルオン・ト〔Truong Tho〕さんは72歳だった。
米兵たちは、彼の顎鬚をつかんで庭に引きずり出し、ひどく殴りつけた。そのあと、米兵はトゥルオンさんの顎鬚をあごまで一緒に切り落とし、井戸へ突き落とした後、爆薬を投げ込んだ。
ムック・ライ〔
Muc Lai〕老人も、米兵たちは顎鬚をつかみ、面白がってそれに火をつけた。
ハーバールの撮った写真の一つに、うずくまり、怒りの眼差しを向けている老人の写真がある。
ハーバールは、「この男は歳をとっており、体が震えていてほとんど歩けなかった。
彼は何かを大声で叫びたがっているような様子だった。
私がそこを去ろうとしたとき、後ろで
2発の銃声が聞こえた。」

米兵は、子どもだからといって、虐殺をためらうことはなかった。
もう一人、米陸軍報道部のジャーナリストがこの作戦に加わっていた。
ジェイ・ロバーツである。

彼はこう語っている。「実にちっちゃな子どもだった。シャツ
1枚以外は何も身に着けていなかった。その子はいくつもの死体の上を這うようにやってきて、その一人の手をつかんだ。おそらく母親だったのだろう。私の後ろにいた米兵の一人が、その子から30メートルほど離れたところで片膝をつけた姿勢をとった。そして1発でその子を殺したんだ。」

世論に深い衝撃を与えた
1枚の写真がある。
水田のそばの路上、正面に横たわった二人の子どもの写真である。
ハーバールはそれについて「この二人の子どもが撃たれたとき、年上の子どもは、小さいほうの子を庇うかのようにその上に倒れこんだ。だが、すぐ、米兵たちが二人にとどめをさした。」と語っている。 


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                   〔右の写真 この二人の子どもが撃たれたとき……(部分)。撮影 ハーバール〕


続く・・・・・


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posted by 秀さん at 19:42| ハノイ ☔| Comment(9) | TrackBack(0) | ソンミ村の虐殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
学生時代の鮮烈な憤りの記憶を呼び戻してしまいました。親友の1人は日本国内で反戦の学生運動から爆弾事件に走り、一時、興銀マンになった私は三年後には、ベトナム戦場取材を希望して時事通信社に移りました。経済記者になってしまいましたが、解放戦線国際部との取材接触は続け、そうした親近感と人脈から今、ベトナムにのめり込むということになりました。
動物としての人間には、野蛮性という特性がこびりついていて、それを浄化する永遠の営みが文化なのだと思います。
Posted by ひとみ at 2010年10月18日 04:20
それでもジャーナリストとしてアメリカを評価し、また魅力を感じるのは、こうした取材が出来ること、その成果がビューリッツァー賞などで称賛され、民主政治がよたよたとしながらも動いてゆくことだと思います。
ほかの超大国、独裁国家では、こうした報道を試みる記者は消されたり(ロシア)、監獄に収監されたり、その家族までが軟禁されたり(隣国)してしまうのです。
Posted by ひとみ at 2010年10月18日 05:46
スミマセン。蛇足になつてしまう感じですけど・・ソンミ村大虐殺事件は、日本のジャーナリスト、志望者に強い影響を与えました。
そうした個々の人間性、人間社会にこびり付いた残虐さ、野蛮さをなくすのはヒューマニズムを標榜するジャーナリズムの役割だと・・・
そして、そうしたジャーナリズムの敵となるような独裁主義、独裁主義にすりよるような政治家には、偏向報道と言われようが、偏っていると非難されようが猛然と反発する傾向にあります。最近の独裁的○政治家にも多くの記者諸君がそうした危なさを感じたのです。蛇足として読んでください。
Posted by ひとみ at 2010年10月18日 09:54
今日の秀さんのホーチミン生活だより・・・・ありがとうございました。
 どの国のどんな人も「戦争はいけない。」と知っています。いったい全ての戦争は、いついかなる時に、人々がどのような行動を取れば防げたのか、私は知りたい。残虐・痛い・苦しい・悲しい・ひもじい・辛い・・・・だから戦争はいけないと言うのとは別に、どこの時点で、どのような考え、どのような行動を取れば良かったのかという声を私は聞きたいです。
Posted by けいこ at 2010年10月18日 19:54
秀さん・・スミマセン・・コメントにコメントさせて頂いてもいいでしょうか。
私の少年時代、1950年代ですが、親や教師、兄弟たちは、太平洋戦争は天皇陛下麾下(きか)の政府や軍部がやったことで自分には関係なかった、国民は被害者だったという態度を取ることに強く反発しました。その時代に生きていた以上、少年少女だったとしても責任は免れないはずです。

では、翻って今、そして未来永劫、日本が戦争に巻き込まれるリスクはゼロでしょうか。そんなことは絶対にありえません。
超大国化する中国、北朝鮮の党、軍部、政府が戦争を起こすリスクの蓋然性は看過できません。ハイリスクと言うべきでしょう。
では、どうしたらいいのか?
戦略論的には、戦争を仕掛けられないだけの軍事力を整備することでしょう。しかし今の日本には、現実的ではありません。
では、どうしたらいいのか?
外交戦略的に、超大国化する中国に対して、米国、日本、東南アジアのパワーが拮抗することによる均衡平和、パワーバランスによる地域的平和を構築することではないでしょうか。
そのために枢要な一平和戦略は、政府だけではなく、民主主義国日本の主権者である国民個々人がその能力に応じて東南アジアの経済発展、パワーの構築のために協力することではないでしょうか。
企業家として、技術者として、クリエイターetcとして、アジアの均衡平和実現のために出来ることは無限にあるはずです、それも利益を確保しにがら・・・ボランティアでは継続性は期待できません・・・
私個人としては、そのためにベトナムの文化経済発展のために全身全霊を投じています。




地政学的現実論
Posted by ひとみ at 2010年10月18日 23:23
ひとみさん どうもです

こんな記事を転載するのはユルユルの秀さんですので どうかと思ったのですが。
人間と言う生き物のある一面を考えることも必要ではないかと・・・

戦争に大義なんてありゃしません。
戦争の歴史全てが利益のため。

目には目を・・・と繰り返す人間の愚かさを
もうそろそろ真剣に考え直さないと人類は滅亡するかも です。

明るい話題を次回は!

どうもです
Posted by 秀 at 2010年10月19日 02:01
けいこさん  どうもです

人間が自分の愚かさを自覚するまでは争いの繰り返し。
やられる前にやる と言う意識が問題なのでしょうか・・・

アホな秀さんにはわかりませんが、早く 愛 で満ち満ちた世界になることを祈るだけです。
Posted by 秀 at 2010年10月19日 02:09
遅ればせながら。
宇宙船地球号、とは誰が考え付いたものですかね。巧いこと言うな。
すると、こういう事件を見せられちゃうと、同じ船に乗船していながら、どうすることもできなかったんだ、と、妙な感覚に捉われてしまいます。でも、もはや、天国にいったであろう、彼らの生命について、異国民だから、と又避けて忘れようとする。
いや、それもこれも、実は己の無力と非力を痛感するだけなんだけれど、もう彼らは死んだのだから、痛みを感じなくてもいいんだ、と、またまた逃げる。
じゃあ、どうすればいいの。生前の彼らの笑顔を想像すれば。彼らが生き返る訳じゃない。記憶、という方法もある。しかし、それを許可しちゃうと、際限がない。
罪と咎無き者を記憶すべし。
そんなこと、してたら、頭がパンクしてしまう。
ベトナム戦争はあったんだ。こう記憶する、ことにしよう。とりあえず。
Posted by 海風 at 2011年05月30日 03:14
紫雲丸事件、があった。でもそれは、日本国内のしかも戦後間もない内海でのことだったろう。あの時、では何故カメラを捨てて、人命救助しなかったか。
同じ軍隊の報道班員では、上官の命令で動く部隊、小隊は、彼報道班員カメラマンが、カメラを捨てて、虐殺を阻止するなんてこと、出来はしまい。こちらは軍人だから。
しかし、明らかに、敵足り得ない者たちを、無抵抗な者たちを、よくもまぁ、彼らが死んだ後まで、シャッターチャンスを待って、撮ったもんだ。軍務だから。
死者からすれば、殺した側で、カメラ持ってただけの、同類としか記憶なく、死んだ。
記憶するだけでもの力があるならば、それをする者は、誰にそうするか。
Posted by 海風 at 2011年05月30日 03:36
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