ソンミ虐殺 戦慄の朝 その2
女性たちはどうだったか。
米兵は、彼女たちを残酷に殺害する前に、その身体に野獣のような行為を行なった。
14歳になるパム・チ・ムイ〔Pham Thi Mui〕は、その母親の死体のすぐ脇で、米兵によってつぎつぎと輪姦された。
彼女の母親は、その直前に、小さな赤ん坊とともに射殺されていたのだ。
強姦が終わると、米兵たちは彼女を小屋の中に放り込んで、火をつけた。
ムイが家から這い出そうとするたびに、米兵は彼女を押し戻し、ついにムイは焼死し、炎は彼女の母親もその赤子も灰にした。
12歳の少女、ド・チ・ギェット〔Do Thi Nguyet〕は、腹部を切り裂かれた。
60歳の老女、トルオン・チ・ダウ〔Truong Thi Dau〕さんは、二人の米兵に強姦されたあと、殺された。
1970年1月19日号の『ライフ』誌に掲載されたハーバールのカラー写真の1枚には、女たちや子どもたちが固まって立っている光景が写っている。
その説明はこう書いている。
「ハーバールとロバーツは女や子どもたちの一団に近づいていく米兵を見つめていた。その一団の中ほどに、黒いベトナム服を着た13歳の少女がいた。一人の米兵が、彼女をつかみ、他の兵士の助けも借りて、彼女を裸にしようとした。「こいつがどんな身体つきか、見ようじゃないか」と一人が言った。もう一人が「ベトコンだよ、やっちゃえ、やっちゃえ」と言い、さらにその少女に向かって「お前はベトコン用のパン助だな」と言った。
「もう我慢できねぇ」と3人目が言った。
死体や炎を上げる家々の脇で、彼らがその少女を裸にしようとしている時、母親が彼女を助けようとして、兵士につかみかかり、爪を立てた。(……) 一人の兵隊がその母親を足蹴にし、もう一人が殴りつけた。
ハーバールはその女たちの写真を撮ろうとして飛び出した。写真は、13歳の少女が母親の後ろに隠れ、上着のボタンをかけようとしている様子を写している。(……)
やがて一人の兵隊が言った。「さて、こいつらをどうしようか」
「ばらすのさ」別の兵隊が答えた。
M-60の発射音が聞こえた――とロバーツは言っている――そして、私たちがそこへ戻ったとき、彼女たちも、子どもたちも、全部死体になっていた。」
トアン・イェン小集落にある小さな寺に住んでいた一人の仏教僧、チック・タム・トリ〔Thick Tam Tri〕(ド・ゴ〔Do Ngo〕)は無残な殺されかたをした。
第T小隊の無線係だったスレッジは言う。「僧侶の服を着た一人の男がカリー中尉のいるところに連れてこられた。
彼は『ベトコンじゃない』とでも言いたげな身振りをして見せた。
カリーは彼にいくつかの質問をしたが、僧侶はただ首を振って、何度も『ノー・ベトコン』と繰り返すだけだった。
やがてカリーは拳銃の台尻でその坊主の口元を殴りつけた。
坊主は仰向けにひっくり返ったが、なおも自分は嘘を言っていないと言いたげに両手を振っていた。カリー中尉は、拳銃の先端を坊主の顔にまっすぐに向け、引き金を引いた。頭の半分が吹き飛んだんだ。」
米兵たちの残酷さが極度に達したのは、彼らが大勢の村民を取り囲み、何十、何百という民衆をことごとく虐殺したときだった。
この出来事が起こったのは、グェン・ニュー〔Nguyen Nhieu〕さんの家の隣にあった監視塔の脇の人気のない草原と、トアン・イェン小集落のはずれにあった溝〔現在ある「ソンミ記念館」の東端にあたる)のところだった。
カリーの部隊にいた兵士、ポール・ミードロが、CBSテレビのインタビューに対して答えたことが、髪の毛も逆立つようなその出来事の一端を明かしている。
質問:取り囲まれていたのは何人ぐらいだったんですか?
ミードロ:40人か50人くらいだったな。
質問:どんな人たちです?
ミードロ:男、女、子ども、それに赤ん坊だった。
俺たちは、奴らを坐らせていたが、そこにカリーがやってきて、言った。「奴らをどうすればいいのか、わかってるな?」それで俺は「はい、わかってます」と答えた。
当然だが、俺は、中尉が、奴らを見張ってろ、と言いたかったんだと思ってた。
中尉はそこから離れたが、10分か15分してまた戻ってきて、「何だ、まだ片付けてないのか」「奴らに死んでもらいたいんだよ」と言った。
カリーは、10フィートか15フィートほど(4〜5メートル)後ろに下がると、彼らに銃を発射し、私にも射撃を始めろと命じた。私は、彼らに向けて4回ほど掃射を浴びせた。
質問:何人ぐらい殺したと思いますか?
ミードロ:自動小銃で撃ったんだ。10人か15人は殺したかもしれないな。
質問:男、女、子どもだったんですね?
ミードロ:男、女、子ども、そして赤ん坊だった。それから、また7〜8人ほどを駆り集めた。
俺たちは彼らを小屋の中に投げ込んで手榴弾を放り込もうと思ってた。
それで、その7〜8人を運河のほうへ押していった。
そこには70人か75人ぐらいの連中がいた。
みんなそこに集められたんだ。カリー中尉が……連中のところへ歩いていって、奴らを溝の中に突き落とし、それから撃ち始めた。
質問:それも、男、女、子どもたちですか?
ミードロ:男、女、子どもたちだ。350人ぐらいがそんな皆殺しにあうのを、俺はこの目で見たぜ。
質問:今、あなたはそれをどんな風に思ってますか?
ミードロ:良心に深く突き刺さってるな。これまでずっと、俺から離れなかった。
だが、あの日、神様は俺に罰をくれたんだよ。俺は爆薬の引き金をうっかり引いちまった。それで片っ方の脚が全部吹っ飛んじゃったんだよ。
ミードロだけでなく、カリー付きの無線通信士スレッジも、村の外れまでカリー中尉に同行したと語っている。
そこで、スレッジはミッチェル軍曹に会った。
カリーがミッチェルになんと言ったのかは聞こえなかった。やがて二人は銃の台尻で彼らを殴りつけて溝の中に落とし、ついで銃を発射した。
そのとき、だれかが、「あそこに、子どもが」と叫んだ。スレッジには、男の子か女の子は判らなかったが、一人のこどもが村のほうに走ってゆくのが見えた。
小さな子だった。中尉が走ってその子を捕まえ、溝の中に投げ込んでからその子を撃った。
別のもう一人の兵士も、同じく、はっきりと語っている。
彼は溝の中を覗き込んだ。血の中に、男や女や子どもが、まるで一つの塊のように死体の山になっているのが見えたと言う。
カリーは、溝の中で、まだ死なずに立っていたり、膝まづいていたりしている者たちを撃った。
ついで彼は、駆り集めてこられたばかりの村民たちを続けて撃った。
兵隊のグループが、村民を少人数に分けては溝の中に突き落とし、戻って行った。
カリーは1時間半もの間、そこに立って、彼らを撃ち続けた。
短時間のうちに、その溝は死体と血が詰まってどろどろとなった。
しかし、それでも、運良く生きのびられたものが何人かいて、あとで、その恐怖の模様を語ることになった。その語るところも、他の証言と同じように正確なものであった。
それは、トルオン・チャウ〔Truong Chau〕さん(75歳)、ド・チ・トゥイェット〔Do Thi Tuyet〕さん(16歳)、ド・バ〔Do Ba〕さん(14歳)、トルオン・リエム〔Truong Liem〕さん(20歳)の4人で、死体の山の中に埋もれていたために、監視塔から撃つ米兵の銃弾による死を逃れえたのだった。
彼らは、この溝の中での大虐殺と同様な虐殺を、次のように語っている。
米兵は村民を駆り集め、有刺鉄線のそばに取り囲み、中にいた女性を強姦したあと、15フィート(4〜5メートル)ほど下がると、軽マシンガンを人びとめがけて発射した。死体の山が次々と出来た。
チャーリー中隊の中のカリーの小隊とは別のいくつかの小隊は、逃げ出した村民を包囲し、銃撃したあと、村の中に突入し、残っていた者たちを探し出した。
ミッチェル・テリーという第V小隊の兵士は、こう言っている。「ベイリーと俺は飯を済ませようとしたが、俺たちのすぐそばにはベトナム人の死体が山になっており、その中にはまだ苦痛のうなり声を上げてるのもいた。
俺たちの前にカリーの小隊が通っていったのだ。ベトナム人は全部が撃たれていたが、まだ死んでいないものもかなりいた。
連中が何か手当てを受けるなんてことはありえなかった。
だからビリーと俺は立ち上がって、連中のいるところまで行った。俺たちが撃って、殺してやろうと考えたんだ。」
1968年3月16日、二人のベトナム人通訳、ドゥオン・ミン〔Duong Minh〕軍曹と、グエン・ディン・プー〔Nguyen Dinh Phu〕軍曹が、この作戦に随行していた。
プーはこう語っている。1968年3月15日、機動部隊の司令部は、兵士たちに酔っ払うほどのビールを振舞った。そして明日は皆殺し作戦があるんだ、と言われた。
プー軍曹は半信半疑だった。
酔っ払うにつれて、そんなことは本当じゃあるまい、と考えたが、しかし、それは本当だったのだ。
プー軍曹はメディナとチャーリー中隊の本部にぴったりと同行した。
10年後、彼はこう語っている。「銃撃がはじまると、C中隊の本部は、湾曲部の左側面に近い村に移動した。そのとき、生垣の隣に頭を砕かれて死んでいる赤ん坊が見えた。私はM-79でやられたんだな、と思った。十字路のところまでくると、恐ろしい光景が目に入ってきた。道路上に、乱雑に積み重ねられた死体の山、男、女、子ども、そして赤ん坊さえその中にいた。」
当時26歳だったドゥオン・ミン軍曹は、やはり10年後に、こう言っている。「恐ろしい死の光景を見てしまったので、私はすぐにメディナに会いに行き、なるべく穏やかな言い方で彼の残虐な行為への抗議を伝えた。
村民が撃たれており、家畜や家が燃やされています、と。
メディナはこう答えたんです。『みんな敵さ』 私はすぐに聞き返しました。
『いいですか、兵隊は武器や防御器具を持たぬ民間人を殺してはならないんですよ』
メディナは、奴らは俺の部下を相手に戦ってるんだ、と繰り返したんです。
それで私は、もしそうなら、あなたの部隊の兵隊が、敵の武器を捕獲するか、あるいは負傷するかしてるはずです。
でもそうじゃない。だとしたら、殺されてるのは敵じゃないと言うことになります、と言った。
「結局、メディナは困ってしまって、俺はそうするように命令されてるんだ、とはっきり言いました。聞きもしないのに、です。」 メディナはいらいらした顔つきをし、ドゥオン・ミンに向こうへ行け、と命じた。
兵隊の何人かも、メディナが虐殺の現場を目撃しており、彼自身もこの残忍な行為に関与していたと確言している。
メディナの無線通信員、ジョン・ポールは、水田で5人が撃たれたが、うち死んでいなかった一人の女性がメディナの銃によってとどめを刺されたと言っている。
また、リチャード・ペンドルトン一等兵はこう言っている。
殺戮は終わろうとしていた。何人かの兵隊は、生き残った村民をめがけて銃を撃っていた。
小さな男の子が、15人ほど山積みにされた死体の中で、誰かを探しているようだった。
その子は、メディナの弾で殺された、と。
その日、ソンミへの飛行を担当していたヘリコプターのパイロット、ヒュー・トンプソン下級准尉は、こう語っている。
彼は一人の負傷者を見かけた。それで、その場所を明示して、歩兵部隊に救援を要請した。そこへ一人の大尉がやってきて、その負傷者に銃を発射して殺した。
後に、トンプソンは、その大尉がメディナだったと確認した。
メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。
うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。
その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。
ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。
メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。
村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。
村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。
トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。
その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。
特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。
トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。
――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。
――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。〔注〕
しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。
そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。
以上転載終了・・・・・・・・・・・・・・・・
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