前にもブログで取り上げたことがあるのですが秀さんが最大限の尊敬を払う人物であり、また同じ福岡県出身ということもあり秀さんの心に 人間とはこうありたいものだ と強烈に思わせる人物のお話です。
実業家 出光佐三さんその人です。
下記の写真で見て頂くと分かるのですが良い顔をされています。
人の思いはお金では測れない・・・・そんな生き方に震えが来ます。
本日は、ねずさんの記事からの勝手に転載ですが出光佐三さんの生き様がよく書けている記事だとと思います。
では、以下転載開始です。
海賊と呼ばれた男 出光佐三物語
「題名のない音楽会」というテレビ番組があります。
この放送は、昭和39(1964)年8月から続くご長寿番組で、東京12チャンネルで放送されています。
もともとこの番組は、TBSとの専属契約を打ち切られて苦境に陥っていた東京交響楽団に、出光佐三さんが、新たな活動の場を与えてあげようと企画した番組です。
番組は、番組途中でCMを入れない構成であることでも知られていて、現在もそれは守られています。
番組スポンサーは出光興産です。
一社だけの提供です。
番組途中でなぜCMが入らないかというと、番組スポンサーの出光興産の創業社長である出光佐三(いでみつさぞう)氏の「芸術に中断は無い」という考えに基づくものです。
その出光佐三氏に有名な言葉があります。
「社員は家族だ。
家計が苦しいからと
家族を追い出すようなことができるか?
会社を支えるのは人だ。
これが唯一の資本であり今後の事業を作る。
人を大切にせずして何をしようというのか。」
どこまでも会社は「利益のために存在する」のではなく、「人のために存在する」という考え方です。
昨今では、儲けのために人をないがしろにする会社が多くなりましたが、ではそうした会社が長く継続して生き残れているかというと、答はNOです。
世界に、創業から200年以上経過する会社は5,586社(計41カ国中)あるそうです。
このうち半分以上の3,146社が日本の会社です。
さらに創業千年以上の会社が7社、
500年以上が32社、
100年以上になると、その数5万社以上です。
それだけご長寿企業がたくさんあるということは、終身雇用、儲けよりも人という、日本的経営の考え方が、正しい、もしくは理にかなっているということになります。
出光佐三氏は、終生自分は、社長でも会長でもない。
どこまでも出光商会の店主であるという考え方を押し通しました。
具体的には次の4つの理念を掲げ、これを終生守り抜いています。
それは、
(1) クビを切らない
(2) 定年を設けない
(3) 出勤簿を作らない
(4) 労働組合をつくらない
というものです。
これを出光佐三氏は、出光の「四無主義」と呼びました。
ひと目見ておわかりいただけますように、これは戦後、欧米からマネジメント手法として輸入され、いまではごくあたりまえになっている、
リストラをする
定年制を敷く
勤怠管理を徹底する
労組を置く
といった、現代企業があたりまえとする考え方の対局にある考え方です。
なぜ対極になるかというと、これもまた出光佐三氏の言葉があります。それは、
「社員は、雇用しているのではない。家族なのだ」
というものです。
佐三氏は、これを「人間尊重主義」、「大家族主義」の経営哲学と呼びました。
要するに、昔からある日本式商店の経営哲学です
出光佐三氏は、明治18(1885)年、福岡県赤間村(現・宗像市)で生まれました。
生家は、地元で藍問屋を営んでいて指折りの資産家でした。
ご先祖は、大分にある宇佐八幡宮の大宮司だったそうです。
宇佐八幡宮というと、和気清麻呂の物語に出てくる御神託をいただいた、あの神宮です。
佐三氏は、小学校に入った頃は、病弱でしたし、ひどい近眼でした。
そのために本が読めない。
また、視力が弱くて体力も弱い。
そこで佐三氏は、本を読んで学ぶかわりに、常に「なぜか、どうしてか」と必死で考える習慣を身につけたそうです。
そして16歳のとき、旧制福岡商業に入学しました。
福岡商業では、ストライキの首謀者などをしています。
このときは、ついに学校側を屈服させることに成功しています。
その代わり、成績は下る一方となりました。
卒業時の成績は下から二番目にまで落ちています。
20歳で、神戸高等商業(現 神戸大学)に入学した佐三は、そこで二人の師匠に出会いました。
ひとりは水島鉄也という、初代校長です。
この校長は、
「カネの奴隷になるな。
『士魂商才』をもって事業を営め」
と教えてくれました。
武士の商法という言葉があります。
明治維新のあと、官職を失った多くの武士が「生き馬の眼を抜く」という商業界にあって、財産をなくし、路頭に迷いました。
もともとは、それを茶化して言われた言葉が、その武士の商法です。
そういう時代への反省から、明治の終わりごろには、国内には拝金主義が台頭しました。
義理人情や筋道や道理や正しさではなく、とにもかくにも「儲かりさえすれば良い」という思想や行動が主流となっていったのです。
ところがそんな時代の中にあって、水島校長は、
「人を大切にせよ、武士道の精神をもって商売に励め」
と教えてくれたのです。
江戸の昔「もし期日に返済なくば、人前で笑われても異議なく候」と借金の証文に書いた武家と、とにかく儲かればよいという商家では、その基盤となる考え方がまるで違います。
だからこの当時、武家の流儀では商売はできないというのが、常識となっていました。
ところが水島校長は
「それでも武家の心を失ってはならぬ」
と説いたのです。
そして、
「男子たるもの、国家に貢献できる事業を営め」
と生徒に語りました。
もうひとり、佐三はなくてはならない出会いがありました。
それが、内池廉吉教授です。
内池教授は、
「これからの商人は、
生産者と消費者を直結し、
その間に立ち、
相手の利益を考えながら、
物を安定供給することにその価値がある」
と教えてくれました。
この時期、佐三氏の実家は、商売が傾きかけていました。
このため、いまでいう大学生活を送る佐三氏には、家からの仕送りはありません。
このため佐三氏は、家庭教師のアルバイトをして、学費と生活費を得ていました。
そのときに教えた子供の親に、日田重太郎という名の大変な資産家がいました。
日田重太郎の趣味は、神社仏閣の巡拝でした。
たまたま佐三氏の実家が、宇佐八幡宮の大宮司だったことを知った日田氏は、佐三氏を無条件に信頼してくれました。
明治42(1909)年、神戸高等商業を卒業した出光佐三氏は、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に、丁稚として入店しました。
酒井商店は、小麦粉と機械油を売っている従業員4、5名のこぢんまりした商店です。
高等商業というのはいまでいう大学です。
いまのように、誰もが大学に進学するという時代ではありません。
ですから当時は大学出は学士様と呼ばれたし、官庁の職員や大企業で重用してくれました。
ところが出光佐三氏は、大企業ではなく、零細商店に入社したのです。
なぜこんな小さな会社を選んだのかと、学友たちはいぶかりました。
それどころか仲間たちからは、
「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」とさえ非難されました。
高等商業を卒業しながら、丁稚奉公に出るというのは、学校のメンツを汚してるというのです。
しかし佐三氏は、周囲の非難などまったく意に介しませんでした。
なるほど大企業に入れば、収入も多いし生活も安定します。
しかし大企業では、仕事の一部しか担当できない。
自分が将来、独立して事業を営もうとすれば、仕事の基礎から終わりまで、全部を覚えなければなりません。
そうであれば、小さな商店の方が、むしろ、なにもかも担当させてもらえますから、仕事を速く覚えられます。
さらに佐三氏には、ひとつの勝算がありました。
それは、「これからの時代は、必ず石油の時代になる」というものでした。
酒井商店は、油を扱っていたのです。
こうして佐三は、大学を出ていながら、小学校卒がなるような丁稚になり、前垂れのはっぴ姿で自転車に乗って集金に駆け回りました。
いまでいったら、かっこ悪いことかもしれません。
けれど未来の独立を夢見る佐三氏にとっては、それは夢を叶えるプロセスでした。
ところが佐三氏に困難がやってきました。
実家の藍屋の商売がいよいよ傾き、もうやっていけなくなってしまったのです。
このため佐三氏は、一日も早く独立開業しなければならない状況となりました。
丁稚奉公では、給金はタカが知れているからです。
けれど、所詮は丁稚です。
給料はたかが知れいてます。
いまどきのように、ベンチャー向けの開業資金融資制度なんてなかった時代です。
頭を抱える佐三氏のもとにある日、日田重太郎氏がやってきました。
日田氏は、佐三氏に、当時のお金で六千円を渡してくれました。
これは、現在のお金に換算したら、約1億円です。
日田氏は、
「京都にある家が売れてな、六千円の現金ができたんだ。
それを君にあげよう」
と言いました。しかもそのお金は、「貸す」のではなく「もらってくれ」というのです。
ただし条件が三つありました。
第一 従業員を家族と思い、仲良く仕事をすること。
第二 自分の主義主張を最後まで貫くこと。
第三 自分がカネを出したことを人に言わないこと、です。
佐三氏は「果たして自分にできるだろうか」と迷ったそうです。
けれど、腹を決めました。
「よしっ。水島校長の言われる、人道主義と士魂商才の商人となろう。
そうなることで、この日田さんへの恩返しをしよう!」
ここに大切なポイントが2つあります。
ひとつは、日田氏の大金の寄付は、もちろん佐三の人柄を信頼してのことだということです。
佐三の実家は、このときすでに傾いていることを日田氏も知っています。
1億円のキャッシュをあげれば、そのお金は、単に実家の借金返済資金に流用され、佐三氏が丁稚のままでいる、あるいはどこかに逃げてしまうというリスクもあったのです。
それでも日田氏は、寄付をしましょう、と言ってくれました。
「金は大事だ。
しかし、それ以上に、人を信頼することはもっと大事なことではないだろうか。
そしてお国のために役立つこと。
君にはそれができる。」
どこまでも「人」が第一なのです。
第二の条件は、上に示された三つの条件は、いずれも無形のもの(=インタンジブル)であるということです。
拝金主義は、
「いま、カネを持ってる、
いまカネを稼いでいる、
いま贅沢な暮しをしている」
というように、とかく「いま」しかみようとしません。
とにかく「いま」さえ良ければ、何をやっても構わないと考える。
日本の近くにある歴史のない国など、国をあげてそれをやっています。
ところが伝統的な日本的価値観では、過去現在未来にまたがる普遍性を大切にします。
そうなると、いまこの瞬間に金を持っているということよりも、もっと大切な価値があるということを大切にするようになります。
そしてこの場合、自力で人道主義と士魂商才を、新しい資源エネルギーの未来に向けて実現しようとする男への投資こそが、まさに価値ある行動となるのです。
明治の終わりごろの日本には、まだまだそういう無形のものを大事にするという日本人本来の文化的価値観が、色濃く残っていたのです。
明治44(1911)年6月、佐三は福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に、出光商会を設立しました。
このときの佐三氏は、まだ25歳です。
これが、後の世界的大企業、出光興産の創業です。
事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額を掛けました。
商品は、日本石油下関支店の機械油です。
佐三氏は、その特約店の資格をとったのです。
ところが、油が売れません。
理由は二つありました。
ひとつは石炭から電気モーターへの切り替えの時代で、機械油の需要そのものが減っていたということです。
もうひとつは、佐三氏の商売の姿勢です。
機械用の油ですから、当然、営業の相手は工場や商店です。
商売人同士のお付き合いですから、袖の下はあたりまえですし、値引きもあたりまえです。
ところが「士魂商才」を掲げる佐三は、
「そんなことまでして売る必要はない!」
とにべもないのです。
おかげで日田氏からもらったお金は、3年で底をついてしまいました。
さすがの佐三も、憔悴しきって日田氏を訪ねました。
「申し訳ない。廃業したい」
と申し出る佐三氏に、日田氏は言ったそうです。
「三年で駄目なら五年、五年で駄目なら十年と、
なぜ頑張らないのですか。
さいわい神戸にまだ私の家が残っています。
それを売れば当面の資金には困らないでしょう。」
日田氏の断固とした姿勢に、佐三氏は慄然としたそうです。
日田さんは、本気で命がけでワシを信じてくれている。
こうなりゃ、なにがなんでも前に進むしかない!
日田さんに家を売らせるわけにはいかん!
倒産寸前の佐三氏は必死に考えました。
単に目先の売上げの確保ではない。
もっと抜本的に、強気で士魂商才を実現するにはどうしたらよいのだろう。
佐三氏は考えに考えます。
そこで、「海賊」をすることを思いつきました。
「海賊」といっても、船を襲うのではありません。
夜中の十二時から早朝の二時頃にかけて、漁船がエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えたのです。
漁船のエンジンは「ポンポン蒸気」と呼ばれるツーサイクルの焼き玉エンジンです。
焼き玉エンジンには、燃料油として「灯油」が使われます。
佐三は、帰ってくる漁船が岸辺に着く前に、伝馬船で漁船に近づいて、海の上で「灯油」の代わりに「軽油」を売ったのです。
軽油は、灯油より下級です。
ですから軽油で漁船の焼き玉エンジンを回すと、クサイにおいがでます。
けれど値段は灯油の半額なのです。
当時の燃料油店というのは、油を元売りから買ってきて消費者に売りました。
小売りは特約店の仕事です。
特約店は、下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれて、それぞれに縄張りがあります。
陸にあがった漁師たちは、その港を縄張りとしている特約店で燃料を買います。
そしてその縄張りは、同業の特約店が、荒してはならないというのが、しきたりとなっていました。
そこで佐三氏は、縄張りがない海上で、油を売ったのです。
文句を言われると、
「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」
と言い張りました。
佐三氏が「海賊」と呼ばれたゆえんです。
多少ニオイがあっても、値段が半値の軽油販売は大当たりしました。
佐三氏はさらに工夫し、揺れる船上での油の販売のために、「計量器付給油船」という海上給油装置まで開発しています。
そして事業を軌道に乗せました。
いったんは廃業まで決意したこの年(大正3年)、佐三氏は南満州鉄道への車軸油の納入に成功しました。
当時、南満州鉄道で使う油は、スタンダード社などの外国の油が独占していたのです。
独占は癒着を生み、癒着は高いコストとして跳ね返えります。
佐三は、そのからくりを見抜き、満鉄当局に粘り強く交渉したのです。
国産油の品質の良さを実験とデータで示し、それを使うことが、満鉄に利益をもたらし、国益にも適うことを具体的に示したのです。
さらに大正8(1919)年には、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に、酷寒でも凍結しない「ニ号冬候車軸油」を納入して、満鉄から感謝状と銀杯を受領しましt。
ところが、大正13(1924)年、第一銀行(現みずほ銀行)が、突然、25万円の借入金引き揚げを要請してきたのです。
いわゆる「貸しはがし」ですが、実はもっと手が込んでいて、儲かっている会社にいきなり貸金の引揚げを要求をし、引揚に応じられないなら、銀行員を社長や役員に迎えろ、としたのです。
まるでヤクザみたいなやり方ですが、いまも、いろいろな会社に銀行員が親元の銀行から派遣されて役員などになっています。
さすがにこのときは佐三氏もまいりました。
一時は自殺説までささやかれたくらいです。
ところが二十三銀行(現大分銀行)の林清治支店長(当時)が、肩代わり融資を決めてくれたのです。
佐三は、ぎりぎりで窮地を脱します。
もしこのとき、大分銀行の肩代わりがなければ、当時儲かっていた出光興産は、出光佐三社長が引退し、商売のまったくわからない第一銀行の行員が社長に就任していたことでしょう。
そのようになった出光興産が、果たしていまのような大手企業となり得たかは、疑問です。
そして佐三氏は昭和7(1932)年には、門司商工会議所会頭に就任し、昭和12(1937)年には高額納税者として貴族院議員となりました。
佐三は、満鉄を経由して朝鮮、台湾にまで進出し、さらに支那事変の拡大と共に、支那本土に営業網を拡大しました。
そして出光商会は、この時期に、従業員千名程を抱える大会社に成長したのです。
こうして個人経営の出光商会は、昭和15(1940)年には改組して、出光興産株式会社となります。
ところが、その5年後の昭和20年、日本は戦争に破れてしまいます。
日本は外地を失いました。
国内は焦土と化し、佐三氏もすべてを失なってしまいました。
その昭和20(1945)年8月17日、出光佐三は社員二十人を集めて訓示しました。
そのときの言葉です。
「愚痴はやめよう。
世界無比の三千年の歴史を見直そう。
そして今から建設にかかろう!
泣き言はやめよう。
日本の偉大なる国民性を信じよう。
そして再建の道を進もうではないか!
具体的なアテなどありません。
けれど佐三氏は、日本を信じたのです。
さらにこの1ヶ月後、佐三氏は驚くべき宣言をしました。それは、
「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」
というものでした。
当時の出光の従業員数は、約1,000名です。
そのうち約800名が、外地からの復員です。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失ったのです。
資産もない、事業もない。
膨大な借金があるだけです。
どうやって復員者を受け入れるというのか。
どう考えても、やりくりできるはずなんてありません。
多くの企業は、ガンガン人員整理をしていました。
それを出光佐三は約1千名の従業員の首を、誰ひとり切らないと宣言したのです。
いい加減なことを言ったのではありません。
それは考えに考えての結論でした。
そしてこの宣言は、佐三氏自身の決意の表明でもありました。
どうにもならないどん底に落とされても、なお道は必ずどこかに通じている。
「道、極まって尽きず」は、尾崎行雄の「人生劇場」の台詞です。
佐三氏自身、どうにもならない、廃業するしかない中で、若い頃、事業のチャンスを得た男です。
その成功体験が、佐三自身の信念になっていたのかもしれません。
出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、何でもしました。
ラジオも売りました。
醤油も売りました。
酢も売りました。
畜産や養鶏にも手を出しました。
思いつく限りのことに手を出したのです。
けれども付け焼刃の仕事は、どれもうまくいきません。
どうしようもなく追い詰められて、一部の社員には自宅待機命令を出さざるを得なくなりました。
する仕事がないからです。
それでも佐三氏は、戦前に集めた書画骨董を売り払い、銀行から可能な限り借金をして、待機組にすら給料を払い続けました。
復員後、気力を失い、郷里に引きこもっていた青年がいたそうです。
その彼が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、父親が彼を烈火のごとく叱ったそうです。
「お前が兵隊に行っている6年間、
出光さんは給料を送り続けてくれたんだ。
それを辞めるとは何ごとか!
すぐ出光さんにお礼の奉公をしろ。
6年間、ただで働け。
それから帰ってこい!!」
当時の父親の気迫が伝わってきます。
青年は思い直したといいます。
待望の石油事業に復帰する機会は、意外に早く訪れました。
GHQ(占領軍本部)が、旧海軍のタンクの底に残った油を処理し活用せよ」と指令を発したのです。
それは、タンクの底に入って油を汲み取る作業でした。
タンク内にはガスが充満し、窒息や中毒の危険がありました。
爆発の危険もあります。
普通なら誰もが請けない仕事です。
誰も請けない仕事だから、日本人にオハチが回ってきたのです。
佐三氏は「これで石油界に復帰する手がかりができた」と喜びました。
全社員を動員してタンクの底さらえ作業を開始します。
廃油にまみれ、泥まみれになり、鼻腔をつくがまんならない悪臭だけでなく、中には手足がただれる者も出ました。
たいへんな作業なのです。
しかし誰もねをあげませんでした。
「俺たちは石油屋だ、
油の扱いは俺たちの仕事だ」
という誇りに満ちていたのです。
「底さらえ」作業は、約1年半に及びました。
そして出光興産は、廃油2万キロリットルの汲み取りに成功しました。
このときの丁寧な仕事ぶりはGHQと、その背後にいる米国石油メジャーに強烈な印象を残しました。
これが、後に正式に石油界に復帰する足がかりとなり、出光蘇生の原点となっていくのです。
いまでも「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉です。
昭和28(1952)年3月のことです。
この時期、イランは英国資本の油田を強制的に摂取して国有化したため、英国と国交断絶状態になっていました。
英国海軍は報復のため、ペルシャ湾を航行するタンカーを監視し、イランから石油を積み出そうとするタンカーを拿捕しようとしていました。
このことは、イランにとっても、肝心の石油を売ることができないという、むつかしい状況を招いてもいました。
「いまイランに行って石油を積み出せば、
石油を安く仕入れることができ、
さらにイランと日本の国交を切り開くことができる。」
佐三氏は、当時出光興産が所有していたただ一艘のタンカー「日章丸二世」に密命を与えました。
「日章丸二世」が向かう先は、サウジアラビアということにしました。
しかし船長と機関長の2名だけが、実はイランに向かうと知っています。
成功すれば、一艘の積荷で、二億円の儲けです。
けれどタンカーが拿捕されて失敗すれば、4〜5千万の赤字となります。
そして出光興産は倒産します。
日本は、この前年に占領から独立したばかりです。
その日本が、連合国の一員である英国の横面を張り倒す行動に出るのです。
神戸を出航した「日章丸二世」は、18日後、ひそかにイラクに入港しました。
英国の監視下にあった港に入港したのです。
このニュースは、まさに世界のトップニュースを飾りました。
そして世界中が注目する中、イランの石油を満載した日章丸は、夜陰にまぎれ、他船との交信さえも一切止めて、ひそかにペルシャ湾を抜け出しました。
そしてインド洋を横断し、約一カ月かけて、無事、川崎に入港しました。
このニュースは、占領に打ちひしがれていた当時の日本人の心を奮い立たせました。
そして、世界に日本の海運技術の凄味を見せつけました。
また、イランと日本の信頼関係の絆を深めました。
これに対し、英国アングロイラニアン社が「待った」をかけます。
積荷の石油は、英国のものであるというのです。
そして東京地方裁判所に提訴しました。
裁判のとき、佐三は東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に次のように述べています。
「この問題は国際紛争を起こしております。
私としては、日本国民の一人として、
俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、
裁判長にお誓いいたします」
日本人、ここにあり!です。
裁判に勝利した佐三氏は、昭和31(1956)年、徳山湾に日本一の製油所を建設しました。
その製油所建設の竣工式に、佐三氏は大恩人である日田重太郎を招待しました。
すでに82歳の高齢になっていた日田氏に佐三氏は、
「すべてあなたの御恩のおかげです」
と述べました。日田氏は、
「あなたの努力と神様のご加護ですよ」
と言って、佐三に手を差し出しました。
佐三はその手をしっかりと握りしめました。
日田が神戸に住んでいた頃、佐三氏は神戸支店員を毎晩、日田家に派遣し、年老いた重太郎の晩酌の相手を命じていました。
夏には軽井沢にある出光の別荘を日田氏のために提供していました。
淡路島で行われた日田の葬儀には、出光興産の「社葬」として、佐三自ら参席し、生涯の大恩人に報いています。
佐三氏は、日田への恩を、生涯をかけて報いたのです。
昭和56(1981)年、95歳で出光佐三氏は人生の幕を下ろしました。
彼を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、
「この人は、
生涯ただの一度も
私に
『金を儲けろ』とは
言わなんだ。
40年を越える長い付き合いだったのに……」
と呟いて落涙したそうです。
あとは言葉になりませんでした。
佐三氏は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通しました。
佐三のモット−は、
「人間尊重」
「大家族主義」
「黄金の奴隷たるなかれ」
「生産者から消費者へ」
というものでした。
彼は、若き日に師匠から教わった教えをそのまま、生涯にわたって実践し抜いたのです。
その佐三氏は、皇室を崇敬することが極めて篤い人でもありました。
また出光興産の東京本社には佐三の郷里の氏神である宗像神社があります。
佐三が逝去したおり、昭和天皇は、佐三に次の歌を贈られました。
国のため
ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ
出光佐三逝く 三月七日
ありがたいことです。
会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。それが日本流の考え方です。
私の友人で、鉄工所を営むある社長は、不況のあおりで工場の受注が減り、売上がピーク時の5分の1になってしまいました。
けれど、彼は必死で従業員の雇用を守り続けました。
自分の給料なんてなくても、社員の給料を払い続けました。
彼は晩婚だったので、まだ幼い子供がいました。
当然、生活費がないと困ります。
なので彼は、夜間の運転手のアルバイトをして、自分の家族の生活を守り抜いています。
別な社長は、やはり社員の雇用を守りぬくため、会社の売上はそっくり社員の雇用のために使い、自分の生活費は、ある大手ショッピングセンターの夜間警備のアルバイトをして賄っています。
企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)との対立と闘争の場であると説いているのは、共産主義です。
経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、個人主義を根本とする西洋風の企業です。
しかし、日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。
それが、西洋風でもない。共産主義風でもない、日本風の商家の考え方です。
なにごとも西洋かぶれするのではなく、私たちはいまあらためて、日本流経営学というものを学んでみる必要があると私は思います。
以上転載終了